勝田ライオンズクラブ10年の足跡
勝田ライオンズクラブ10年の足跡
10 YEARS HISTORY
勝田LCはCNを一応成功することができたが、これからのクラブ運営と事業のあり方、進め方に非常に苦労した。ここで、CNより10周年の歩みを考えて見ると、基本的に例会は12:00~13:00昼休みの時間帯であり、出席率85%を保つことができたが、次第に出席が落ち込み、事業も予算が少ない為、労力奉仕を主体として活動し、特に昭和通りの「つつじ」の植栽、整備、交通安全の立哨等の労力奉仕程度で物的ACTとしては、駅前ロータリーに市民憲章の憲章文を掲示した時計塔、小学校への黄色帽子贈呈と細々と奉仕して来たのであった。
又、この年代(昭和40年代)は、茨城のライオンズの黎明期と言われ、クラブを増やすこと(エクステンション)が大きなアクティビティであり、水戸LCが水戸葵LCを結成し、その後、続々とエクステンションされ、勝田LCも実施活動を開始し、先づ高萩市の日本加工紙高萩工場を窓口にして活動していった。
ここで勝田クラブはどうであったか。会員の減少が続き30名を割り込み24~25名程となり、他のクラブから解散するのではないかと言われ、その為、自己のクラブの存在感を強める為、県内クラブのチャーターナイトには必ず出席し、活動内容や、クラブの在り方をPR したのである。
(当時は国際規約で19名を割ると解散ということになる)
ここで残念だったことは、幹事の柳生氏が昭和39年12月に病に倒れ退会となり、その為、結成年後期の幹事は、昭和40年1月から刈部が幹事代行を勤め、9年後に柳生氏が再入会し、10周年を迎えるに当り、会員の大増強を図ったのである。正に柳生氏の人とのつながりが大きく影響し会員40名以上となり、10周年記念式典を日製体育館で盛大に開催することができたのである。この10周年の式典での記念講師は、勝田クラブチャーターナイト当時ガバナーであった、迫水久常先生(参議院議員)にお願いし、大平洋戦争終戦の天皇御前会議の模様を述べて載いたのである。(先生は終戦当時、内閣書記官長であった)
又、10周年の折、香港で東洋東南アジア大会があり、その折、台湾へ寄り台湾の士林ライオンズクラブと姉妹提携したのである。